答えなどというものは、端から存在していないのではないか。正しい段階を踏めば、確実に到達できる場所があると信じれば、それは気楽だが、もし見極めた道筋どおりに進めたとしても、それはつまらないものだ。

いや、そういうことはまずはやって見せてから言いなさい。確かに。でも、不味いとどれほど自己暗示をかけても美味しい料理は美味しいのだ。なぜ、まずい料理を旨いと思わなきゃいけないのか。時間の無駄だ。

策を練って、狙い撃ちした作品はどれもメッセージ性が強すぎて、面白くない。この人生の終わりはいくら努力しても結局のところ"死"である。死に方がどうであれ、すでに物語の結末はみえている。

だから、芸術に触れているときくらい、終わりが見えない、答えがない世界の中で酔いしれたい。

その、ある種、神聖な芸術の世界に金の存在が混在し始めると、これは厄介だ。芸術か金か?金と芸術か?もしくは金など考えず、芸術を行うか。芸術と金という問題に対して、どのようなスタンスを取るかを決める必要が出てくる。

僕は"金のために芸術を"という奴の作品なんて触れたくもなければ、"金がなくても芸術さえあれば"という奴も饒舌が過ぎると考える。

これが芸術ではなく、ビジネスならば、答えは簡単である。金を自分のところへ、とにかく集めることである。組織として行うなら、社員を雇い、サービス・製品にかかる原価を安くして、付加価値をつけて消費者に高く売ることである。

これは消費者に消費され始めた芸術家も同じだが、社員は濡れ雑巾である。代わりはいくらでもいるのである。"お前の代わりはいない..."と言われても、幾日か経てば、より優秀な者が来る。もし来なくても、何とかなるのだ。

 基本的に、問題は解決できないのではないか。問題を解決したように思うことで、それを克服していくしかないのでないか。人間は忘れる。問題は解決するのではなく、忘却するのが生きる術なのかもしれない。

僕は趣味で、絵をよく描いている。絵は僕が今まで行っていた活動の中でもっとも自由な行為だ。お金があるときはキャンバス、ないときは段ボールを前にして、絵の具を指ですくいながら、それにぶつけていく。上手く描こうという意識ではなく、倒してやろうという意識の方が強い。

小説も書いているが、小説は自分の中に浮かんだイメージを精密に出力していく、という感じである。そこには制限が存在する。

絵画はより自分の内にあるもの、それが精神か心か魂か、もしくは血液の流れや内蔵の動きかもしれないが、それを表現できる。表現したいと思える。

そんな自由な空間はこの世界には他にない。他人の存在が少しでも視界にちらつけば、その自由な戦いは消えてしまう。だから、表現なくして、僕は生きていけない。というか、生きていく価値もないだろう。

これからの芸術をアップデートしていく芸術家は金を稼げる者たちだろう。商才があり、アートマネジメントを徹底し、作品を全面に押し出す者が勝っていく。僕のような、自分の内面から芸術を産み出したいと欲す者では芸術では食えない。

だから、僕もしっかりと働いて稼いでいく必要がある。さもなくば、苦痛に満ちた人生になりそうだ。外は希薄だ。薄いカルピスを濃くするには原液を買うための金が必要だ。薄いカルピスに慣れるという選択も悪くないが、それでは少々もったいないと思う。周りは物質で溢れている。どっぷり浸かることができなければ、そこから抜け出すともまたできない。

ある事情からこの日記ブログに文章を書くことをやめていたが、やはりこの気軽さがまだ捨てられそうにないため、また書き始めてしまう。労力を一点に集中できれば、と思うことが多いが、快楽に身を任せてしまう。現時点で、「後悔」の❝こ❞という文字がすでにこちらを覗いていることは見ていないフリをして文字を打っていこう、今日だけは。

 

今日、道を歩いていたら、白いシャツを着たお兄さんを見かけた。カフェの前で、電話をしているお兄さんだ。若者というには少し年を食っており、もちろん中年者でもない場合、僕はお兄さんと言うようにしている。お兄さんの白シャツは見るからに風通しが良さそうで、一見すると麻のような生地質で、今日の札幌の天気にはとても合っていた。お兄さんは電話をした後にカフェへ戻っていった。

 

しかし、麻っぽい白シャツのお兄さんを目にしただけで文章を書き始めるほど、僕は暇ではないし、白シャツのお兄さんというだけで文章が書けるほどの創造力の豊かさも近頃は影を潜めている。いや、暇はいくらでもあるが、創造力は確かになくなった。元からないか。ひとつハッキリしていることはもう少し苦労しなければいけないということ。今はかなり楽で堕落した生活の中にいる。 

僕は思い切って、お兄さんに話しかけた。

「もし間違っていましたら申し訳ありません。Hさんでしょうか?」

 

Hさんは僕が19歳のときにインドで貧乏旅行をしているときにお世話になった映画脚本を行う方であった。面白い青年だ、と言って僕のドキュメンタリー映像を撮ってくれた方だ。ドキュメンタリーと言っても、映像内で僕は一言も発していなければ、カメラを意識した動作も何ひとつしていない。映像の最後で高いだけで、特別旨くもない珈琲か紅茶を啜りながら、カメラを向けられていることに面白おかしくなって笑っただけだ。場所はダージリン。紅茶が有名な地域であった。

 

Hさんは僕がインド・バラナシの安宿で働いていたときにお客さんとして来た。宿に入っては否や、レセプション前のソファーに腰を深くかけてため息をついていた。移動で疲れているようだったが、その後、旅を共にした少しの期間で、タバコを吸った時か値段交渉をする以外、H氏は基本的には疲れた顔をしていた。

 

最後にHさんと会ったのは今から4年近く前、最後の挨拶の詳細は覚えていないが、場所は確かインド・コルカタであったと思う。Hさんは映画脚本家として、僕は何者かになりたい青年として、夢を多く語って、さよなら世界のどこかで、をした。それから、日本に帰ってきてからも、何か契機がある度に、Hさんとはメッセージを取り合った。大学を中退するかもしれない、恋人ができた、演技がしたい、文章を書きたい、などHさんからしたすこぶるどうでもいい内容ばかり送り付けたが、すべて丁寧に返信してくれた。

 

しかし、あるタイミングでHさんの連絡先を喪失してしまい、その後は連絡が取りたくても取れない状況になってしまった。僕の記憶に住むHさんも影を潜めるようになったが、それでも時々思い出していた。

 

やはり、Hさんであった。

4年ぶりの再会。それも最近住み始めたばかりの札幌で。今日は歩くはずのなかった狸小路という商店街のカフェの前で。たまたま顔を上げて歩いていた視界の中に。

 

こういうことってあるんだなぁ~、と感慨深く思うしかなかった。インド・コルカタから札幌の狸小路までの距離がどれくらいか、調べて書けば文章の完成度は高まるが、それすらも放棄してしまうくらい、様々な記憶や想いの中を旅させてくれ今は、という感じなのだ。

 

Hさんは現在、不動産会社を興して忙しいようで映画へ使える時間がないと言っていた。それを聞いて何だか少し寂しい気分、取り残された気分がしたことに嘘はつけないが、旅を共にしていた時にHさんはこう言っていたことを思い出す。

 

「ぼくが映画で成功するのは60代に入ってからだろうね」

 

僕はもう少し早く成功したいから、なるべく文章の無駄遣いはしないでおこう。

成功に必要なものはハードワーク、に必要なものはソフトなボディーと中心へ意識のみ

 大学受験生のとき

オンライン授業のためにiPadminiを買った。

購入前に幾らか支払えば裏に刻印可と書いてあって

今までやってこなかった勉強をやるという覚悟から

「Hard Work or Go Home(ハードワークしなければ家に帰れ)」と入れた。

 

結局、よく家に帰った毎日だった。

まぁ、結果的に自分にふさわしい大学に入学できたから結果オーライ。

 

成功したい、スキルを身に着けたい、実績を築きたい、などと思ったとき

いったいどうすればその目標や夢が叶うのか?と考えるだろう。

 

たとえば、大学受験生だった僕は「大学に行くこと」で人生を逆転させたいと17歳のときに強く思った。しかし、現実的に考えて「偏差値70以上の一流大学には1年の勉強では行けない」と自覚していた。受験勉強スタート時の偏差値は40未満だった。当たり前だ、勉強なんてしてこなかったんだから。

 

今までやってこなかった人間が一瞬でやっていける人間に変わることはまずない。実際に、僕が1年間を通して費やした勉強量は他の受験生に比べて少なかっただろう。圧倒的な学力的なハンデを背負っているにもかかわらず、結局自分が考えていたレベルの「ハードワーク」はできずに受験生活が終わりを告げた。

 

ハードワークという言葉は非常に魅力的である。

そして実際に成功の秘訣は常に「ハードワーク」だろうと思う。

 

ハードワークは努力である。

努力の問題では「量か質か」ということが度々問題になるが、どっちにしろ成功するにはまとまった時間が必要であるだろう。誰でも最初は初心者であるから、スタート時の質は低くて突然である。

吉本隆明「なんでも10年やれば仕事になる」と言っている。

 

正直、みんな気が付いているのではないだろうか。

「成功への鍵はハードワーク」ということに。

 

しかし、ではなぜマジョリティーはハードワークができないだろうか?

 

僕はその原因は「身体」にあると若干断定的に言いたい。

もっと具体的に言えば「身体が常に硬直状態にあるから」だ。身体を緩めることを身体が学んでいないため、身体は常に力を張った状態で動作をする。力んだ状態では長くは走れない。人生は100m走ではなくマラソンでありトライアスロンなのだ。

大きな一発より小さな100発である。

うどんよりそばであり

スタバよりドトールである。

 

人間の体はおよそ200個の骨と500個の筋肉で成り立っている。理想を言えば、特定の大型の骨・筋肉に頼らずに、すべての骨・筋肉を総動員して動作できればいい。特に大切なのは細部の筋肉だろう。

 

筋肉はアクセルであるがブレーキにも成りえる。腕が太い大男がひょろひょろの草食系男子に腕相撲で負けるのは筋肉にブレーキがかかっているからである。その反対に、ひょろひょろ男は身体全体の骨・筋力を総動員することで相手を倒せるのである。

 

身体の緩さやブレーキ化する筋肉の排除で参考になるのがイチローだろう。

イチローはバッティング動作から流れるようにして一塁方向に走り出す。外部からはまるで打ちながら走っているように見えるが、本人は「打つ→走る」という動作を分けて考えているのだ。バッティングとランニングは全く別の動作であるから、移行時に筋肉にブレーキが普通はかかるはずである。

しかし、イチローは流れるように運動を移行できている。

この答えは「ふともも」にある。通常のバッターはバッティングからランニングに移行する際に「ふとももの前部(大腿四頭筋)」を使って走り出す。しかし、大腿四頭筋は自転車でいえば「前輪」である。ランニングではブレーキになる。

早く走り出すなら後輪に当たる「ハムストリング(大腿二頭筋、半腱様筋、半膜様筋」を動かすべきなのである。

イチロー大腿四頭筋を緩め、ハムストリングで走っているから速いのだ。

長年、日本球界・米メジャーで活躍できたイチローは「脱力の天才」である。

 

しかし、脱力だけではワカメみたいにへなへなになってしまう。

 

ここで大切なのが軸(センター)への意識だ。武術には身体の中心として発達すべき丹田という意識がある。もちろん身体の中には丹田という器官は存在しない。これは意識である。しかし、武術を成立させるためにもっとも重要な意識である。骨・筋肉は衰退するが、意識は生きている限り強くなる。

 

武士が下腹部を切って自決したにも、下丹田という強烈な身体意識があったからであろう。武士としての誇りがハラにあったのだ。実際に、犯罪を犯した武士はハラでなく首を落とされて死んでいった。

 

同じような言葉は西洋にも存在する。クラシックバレエの「センター」である。キレイに回るためにはセンターが必要である。センターがなければ回っている途中で、すぐに足が地面についてしまうだろう。

 

色々なことを書いた。

言いたいことは「成功のためにはソフトなボディーでサステイナブル(持続的)にハードワークを行う必要がある」ということ。そのためには、身体を力んだ状態や特定の大型の骨・筋肉に頼る状態から身体が緩んだ状態・細部の筋肉や中心部への身体意識がある状態へと変えていく必要がある。

 

頭を動かすだけじゃ限界が見えてきた最近。

身体を動かすことが唯一の突破口にみえる。

依存はいけないぞん

特定の何かに依存するのは良くないが、特定の何かに依存しているのが人間かもしれない。もっとも最悪なケースは「自分が依存していることに気が付いていないこと」である。岡本太郎は著書「自分の中に毒を持て」で❝情欲に流されるのはいい。だけど、流されているという自覚を持つんだ❞と言っている。この情欲を依存に置き換えて考えよう。

 

自分の物事に対する依存性を低めるためには「私はひとりでも生きていける」という根拠のある自信が必要であり、その根拠ある自身は技術的な部分からやってくる。たとえば、会社という組織に依存しないためには、自分の力で稼ぐ力をつけることが最重要である。「この会社がなかったら私はダメ」という否定的な考えの元では、日々不安だし辛い。

 

自分の力で稼ぐ技術に関して言えば、独力で稼ぐ力がひとつ付いたら、すぐ次の技術を開拓していく。そうやって自分の幅を広げていくことが大切ではないか。ひとつの仕事を行うにしても、クライアントは複数を抱えていたほうが安定する。

 

考え方は非常に大切だが、考え方だけでは何も生まれない。芸術家がいかに強い思想を持っていても筆を握らなければ何もならない。哲学者も頭で考えて思想を構築したとしても、書き起こさなければ何もならない。自分の考えにどう命を与えるのかを考え実行することが根拠のある自信を生む唯一の方法であると思う。

 

依存は真実を曇らせると、僕は考える。真実は見えすぎると辛いものだから、多少曇っていて良いのだが、曇りすぎると自分を失う。自分を失うということは、自分の人生を失うことであり、他人の人生を生きることである。

 

どんな状況に置かれてもまずは自分のことを考える。

自分よりも大切だと思える人や物事が現れたら、そのときはそのとき。

まずは自分の人生に責任が持てるように、自分のことだけを考えたい。

待てよ、よく考えてみたら

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(title:カフェにて)

 

ちょっとよく考えてみてほしい。

 

完璧な仕事をしようとする。

完璧な作品を作ろうとする。

完璧な人間関係を築こうとする。

 

でも、待てよ。

 

完璧を目指せば目指すほど

仕事は進まないではないか。

作品が完成しないではないか。

人が去っていくではないか。

 

あれ?おかしいぞ、とここで気づく。

 

そもそも僕は欠落人間ではないか、と気づく。

 

完璧を目指せば目指すほど

自己も金も表現も失う。

 

完璧を目指すのではなく

不完全性をエネルギーに進むのだ。

 

とりあえず進む。

今日よりかは幾分よい明日が僕たちを待っている。

 

た、たぶん。

旅はクソである

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 (title:札幌クラシックな夜)

 

チェコのパブで用を足したのが15歳。

バスケットボールの遠征中のこと。 

 

香港のお粥屋さんで用を足したのが16歳。

フィリピンの語学学校で用を足したのも16歳。

 

インドの安宿、

エジプトの水タバコ喫茶、

オマーンのビジネスホテル、

ドイツのアパート、

ポーランドマクドナルド、

で用を足したのは19歳。

 

パリのアパートで用を足したのが22歳。

 

あなたにとって旅とはなんですか?

「用を足すことです」

 

今年で23歳。 

 

用事がある旅

用事がない旅

 

振り返れば

色んな場所で

用を足してきたなぁ。  

 

ちなみに今は

札幌で用を足している。

 

サッポロクラシックの飲み過ぎには 

ご注意願います。

ぐちゃぐちゃなオセロ

負けると分かったらオセロをぐちゃぐちゃにするやつ。

そんな奴が、小さい頃の友達の中にひとりはいただろう。

まぁ、それは僕のことなんだけれども。

 

何かをやろうとすると勝負の世界に晒されるのが世の常であり

勝負が嫌だ、と家で引きこもっていても自分と闘いがある。

「闘いではない。受け入れるのだ」

しかし受け入れるためにはまず闘いに挑むことが必要だ。

 

世の中、闘いに溢れている。

人間関係、仕事、スポーツ、芸術...

人生のすべての戦いを掘り下げていけば

それは結局、人との闘いであり、自分との闘いである。

 

負けてもいいからとりあえず頑張れよ、と人に言われるのはいいが

闘いを控える自分が自分に言う言葉ではないように思える。

負けてもいいから、と保険を張ってしまう。

敗北感は薄まってしまうだろう。

 

瞬間瞬間に、持っている力を全力で出すかが重要だ。

それで負けたら、ものすごい自己否定感に悩まされる。

この自己否定感がマジでBitch(=辛い)なのだが

自分を成長させる理想のパートナーなのかもしれない。

 

負け戦が確定したら、オセロをぐちゃぐちゃにする。

それは勝利のない勝負の世界を生きることであり

隣の芝に青色の絵具をぶちまけ続けることである。

 

「人生は勝ち負けじゃない」という奴らほど

肩に無駄な力が入っている。