一日終わりにはシャワーを浴びなければいけない-ちんこの先からケツの穴まで

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ブログを書くとき、どうしても過去の話ばかりしてしまう。

もっと未来の話をしたいのだが、ついいつも回顧展を開いてしまうのだ。

 

「一日の終わりはシャワーで身体を流しなさい」

帰宅して玄関を開けたとき、父は僕にそう言ったこともふと思い出した。

いつもだったら、部屋の椅子に座りパソコンをいじる僕は

すぐに服を脱いで浴室に向かった。

しかし、なぜ父はそう言って、僕はそれを思い出したのだろう?

恐らく、僕はケジメをつけたいのだ。

でも、何とケジメをつけるというのか。

それは、理想に届かなかった今日という一日かもしれない。

今の僕にとって、理想の一日とは何か?

それは8,000円を稼ぐことだ。

そう。一日で8,000円すらも稼げていないというのが現状なのだ。

 

フリーライターにこだわらなければ一日8,000円という目標はすぐに達成できるだろう。

しかし、僕はフリーライターとして稼ぐことに物凄く執着している。

理由は簡単。他に稼げる選択肢がないからだ。

今の僕の「稼ぐ」という実感の行き所は今年8月までに月収30万円。

いやそうは言わずに、来月にでも達成したいのが本音である。

月30万円を今年8月までに達成するという目標を立てた場合、僕の現在の能力ではライティングしかチャンスが残っていない。

もちろん月30万円というのは今考える現実的なラインにすぎない。更新したら、50、100万円と目標を打つラインは変わってくるだろう。

最近の僕の頭の中は「金」「金」「金」

金がない今が、不安でしょうがないのだ。

 

冷静に考えてみた。

僕は表現を続けていきたい。

表現の形はエッセイ、小説、アート、音楽でも何でもいい。

自分がその時“これだ”と思った表現方法で何かを発信しなければ僕は死んでしまう。

事実、今こうしてこのブログを書いているのも絶対的必要性を強く感じているからだ。

表現をしなければいけない状態を抑え込み続ければ、精神科が僕を待っている。

 

じゃあ、そうならないために何をするべきなのか?

「金を稼ぐこと」に行き着くのだ。

金があれば存分に表現ができるに違いない。

仕事で表現する時間がなくなったとしても、限りある時間の中で最高の表現ができるはずだ。

表現が制約の中で生まれるなら、そうだ。

金があれば、世界中の表現に触れることもできるだろう。

 

現代では「金より信用を稼げ」と言う。

でもたとえば僕がこのようなエッセイを書き続けたところで、絵を描き続けたところで、金銭的支援をしてくれるパトロンが見つかる可能性は限りなく低い。

じゃあ、自分が自分のパトロンになるしか他にないだろう、と思う。

それに、正当に金を稼げば信用は後からやってくるはずだ。

 

僕が今感じている金への欠乏感は金そのものへの欲望。

つまり「金があればあれこれできる」という幻想から来ているのは間違いない。それでも、その幻想を「少ない金でも生きていける」という現代的なアイディアで破壊しないのは、僕にとってそれはつまらない生き方だからだ。

 

金がない現実に疲労困憊してそちらのアディアに寄り道しても

結局「金はあったらもっとここがこうできるのに」と里帰り。

 

ひとつの記事を書き終えて新しい記事を書き始めるとき

僕はまずブラウザに開かれた無数のタブを全部消す。

これは一日の終わりにシャワーを浴びることと似ているかもしれない。

 

理想に近づけなかった一日の夜はそんなに悩まず、ちんこの先からケツの穴まで洗ってさっさと寝床につくのがよさそうだ。