雑文4. ただの世間話

人との関わりが増えると

<世間話>をする機会も増える。

 

世間話が嫌いという人がいる。

時間の無駄だから、と言う。

 

ここでいう世間話とは<郵便物を取りにポストへ行って会ったご近所さん>や<スーパーに並んでいるときに突然声をかけてくるおじいちゃんおばあちゃん>とのスモールトークである。

 

世間話は<トピック><ゴール><時間的リミット>という3つの要素で構成される。

 

つまり

まとめると<時間的リミットがある中で話すトピックのゴールは何か>を考えることにある。

 

世間話は議論ではない。議論に発展させてはいけない。世間話はほんの少しの空間を埋めるためのツールである。

 

議論に発展させないためには<前提条件>を相手から引き出すことが非常に重要である。

 

つまり<相手にとってこのトピックのゴールは何か>を理解することである。そのため、世間話は自分から始めるより相手から始めてもらった方が有利である。

 

世間話は開始された瞬間からゴールがすでに決定されていることが多い。具体的でなくとも、漠然とした方向性が固定されている。

 

世間話のひとつの例として

飲み屋のテレビにメジャーリーグが流れていて、隣のおっちゃんがいきなり<大谷選手>について僕に話しかけた場面を思い出す。

 

"いやそういやぁ大谷。ありゃすごいね"

おっちゃんは僕にそう言った。

 

このトピックはイチローでもダルビッシュでもなく<大谷選手>である。そして、おっちゃんの言葉遣いから分かるように前提条件は<大谷選手を称えること>だ。批判することではない。二人ともカウンターに座って飲んでいるため具体的な時間的リミットはないが、おっちゃんは僕と長話をしたい可能性は実に低いだろう。

 

"本当にすごいですね。昨日もまたホームラン打ちましたし、米メディアもべた褒めです"

僕はこう返したと、思う。

 

おっちゃんは"そうかい、そうかい。いやぁたまげたな~"と言って適当な肴を注文してトイレに行った。

 

日本人は世間話の術を社会生活の中で訓練されていく。一方で、西洋人は世間話をそこまでしない。どちらかというと議論だ。

西洋人と話しているとき、僕にとってただの世間話だったのにいつの間に議論に発展してしまったケースが多々ある。

自分の意見を言い相手の意見を聞くという姿勢が非常に強い。

 

しかし人生は有限。

議論ばかりしていても何もならないのである。僕が小学生のとき<ディベートのクラス>があって、最高に嫌いだった。設定されるトピックも社会問題などセンスのないものばかりで小学生には実感が捉えられないものであった。

 

これは意味があるのか?と考えていたから、授業を積極的に拒否し後ろに座ってみんながディベートに熱くなる姿を見ながら落書きを書いていた。

 

子供のときは感情が先行しやすいため、<白黒つけてやる>というスタンス。結局、クラスで発言権を持っているガキ大将とその子分が強引な論法で他を潰して終わる。

 

三者でありジャッチの役割である先生が機能しているなら幾分マシだか、そうではなかった。

 

議論は知識レベルが上の相手と行い、自分の<無知さ>に恥ずかしくなるためのモノというマゾスティックな姿勢で望むのが一番得るものが多い。

 

負け戦前提で挑んで負けて<俺はいったい何を勉強してきたんだ>という嫌悪感は結構大切に思える。

 

もちろん

その嫌悪感を放置してしまえば、<ただのネガティブなアホ>になるだけである。

 

ネガティブなアホは最悪だ。

世間話のひとつもできない。