路上のもんじゃ焼き

最近は本当に何もしない。

仕事もしていなければ
学校にもいっていない

しかし、この「何もしない」
は過去のそれとはどこか違う。
何もしていない状況は僕にとって精神的苦痛であった。

なぜ何もしてないと感じてしまうのか?
そう強く感じてしまうのは「社会的生産」をしていないからだ。

つまり、社会に役立つのような「仕事」や「学習」を一切していない。
だから、何もしないときは他人の評価が恐く、家に隠れるか、その恐怖を他の何かで紛らわすか、いろいろ考える。

そして「やっぱり仕事をしなくちゃな」という感じで適当な仕事を探す。

何が欲しくてどんな人間になりたいのか。

それが分からない僕でもひとたび外に出て働くことで批判は免れる。

仕事は「批判から身を守る防具」になる。

その意味で仕事は
お金を稼ぐのではなく、防具を手に入れる行為だ。

しかし、年齢と共に雇用体系を変えていかないと、働いていても批判される。
40歳でコンビニのバイトでは批判の矢を跳ね返すことは難しい。

16歳からアルバイトを始めて
仕事についてよく考えてきた。
いちいち考えるのはどれも仕事が続かないからだ。

もし仕事が続けることができていたら考えない。
「なぜ酒を吐くまで飲むのか?」
そう考えるのは路上にもんじゃ焼きをつくってしまった後だ。

思い返せば何もしていない状況は僕にとって精神的苦痛であった。

なぜ何もしてないと感じてしまうのか?
そう強く感じてしまうのは「社会的生産」をしていないからだ。

つまり、社会に役立つのような「仕事」や「学習」を一切していない。
だから、何もしないときは他人の評価が恐く、家に隠れるか、その恐怖を他の何かで紛らわすか、いろいろ考える。

そして「やっぱり仕事をしなくちゃな」という感じで適当な仕事を探す。

何が欲しくてどんな人間になりたいのか。

それが分からない僕でもひとたび外に出て働くことで批判は免れる。

仕事は「批判から身を守る防具」になる。

その意味で仕事は
お金を稼ぐのではなく、防具を手に入れる行為だ。

しかし、年齢と共に雇用体系を変えていかないと、働いていても批判される。
40歳でコンビニのバイトでは批判の矢を跳ね返すことは難しい。

16歳からアルバイトを始めて
仕事についてよく考えてきた。
いちいち考えるのはどれも仕事が続かないからだ。
「働いていて楽しい」と思ったのは札幌のゲストハウスで働いていたときだけだ。

無償だ。
給料の代わり、休憩のときに買ってもらえる62円のアイスバーが火照った身体を冷やした。

「仕事をしなければ食ってはいけぬ」という状況に真に陥ったことがない。
だから、こんなのんきなことが言えてしまうのは分かっている。
しかし、仕事への執着心を強めるために自分を貧困へ押しやったとしても
それで真の貧困を語たれるとは思わない。
真正面から貧困と向き合っている人の想いを汲むことはできない。
常に逃げ道が用意されているからだ。

僕が生きている人生は僕が選んだものではない。
要所要所で自分で道を決めるように思うが、その道すらも与えれたものだと思ってる。
だから、常に与えられた道を進んでいく。
受動的だが、強くそう思う。

人生に対して不平不満を持てない。
最高でもないが、最悪でもない。
ただ生きる。

だから「あのときこうしておけばもっといい人生に」なんて一度考えたことがない。

それは僕が反射的に生きていることの証明であり
「他人から与えられる夢」に早い段階でアレルギーを起こしてしまったからだと感じる。

「何もしない」という状況は他人から与えれる夢へのアレルギー反応だ。

軽度の発作の場合は適当な自己啓発本を取ってやる気を出すことができるが
重くなるとシャワーを浴びる気すらも失せる。

このようなときにうつ病のチェックリストを埋めてみると
自分でも思わず唸る高得点を叩き出せる。

しかし、すぐに病院にいってしまうのは勿体ない。

そう考え始めたのは僕も通院を繰り返したからであると思う。

何もしたくない状況に置かれたら
「何もしない」のが一番いい。

思考がどこへ向き
身体がどう動くのか

何もしないときの思考の向きと身体の動作に
「自分の夢」が隠されている。

今回の「何もしない」ではそう思った。

何もしなくても、全く不安がない。
どんな他人の言葉すらも響かない鉄壁の「何もしない感」がある。

でも、その代わりに「オレ何言っているだろう感」がヤバい。