記憶を失くした朝に「田中」と呼ばれたら

「田中~これわかるか?」

「先生、ぼくは“佐藤”っす」


大学生だった僕は
ある教授に「田中」と呼ばれていた。

最初のうちは訂正をしていたが
すぐに“ぶっちゃけ佐藤でも田中でもどっちでもいいや”となり、<田中として>しっかり受け答えをするようになった。

中学生のときにペラペラとめくった哲学書の影響で、自己について考えるようになり、僕の正体は「佐藤」ではないことを知った。

それから、僕はファミレスの受付表に平井堅とか「デイビット・ベッカムとか書くようになったし、病院の待合室で「斎藤さん」と呼ばれても"はい!"と返事をするようになった。

もし明日の朝、今まで“佐藤”として生きてきた記憶をすべて失くし
人から田中さんと呼ばれはじめたら、どうする?

明日からオレが「田中」になる可能性は...あるのだ。

まず何らかの理由で
今までの記憶とおさらばする。

それは病気かもしれないし事故かもしれない。

もしくは政府の極秘ミッションのために人間兵器になるために
僕は佐藤として記憶を抹消し、田中になることを決意するかもしれない。

アメコミ風のストーリーで「田中」は何だかな。佐藤も大概だが。

理由はなんであれ
佐藤として記憶がなくなった朝が来るとしよう。

真っ白の部屋にベッドがひとつ置いてあり
僕はそこに横になっている。

佐藤として履歴が全データベースから消えている設定。

健康保険証もなければ、極悪犯罪者みたいな顔写真が載った免許証もない。

向こうから人が歩いてきて

「田中さん、時間ですよ。起きて下さい」


もしそう言われたら

“オレは田中というのか”

僕は自分自身を「田中」と何も疑わずに思うに違いない。

佐藤としての僕を知っている他者がいれば話は別だ。

でも、もしいなかったら?

僕は田中なのだ。

想像にすぎないが
アルツハイマーを患う僕のおばあちゃんは
このような感覚を持っていて生きているのではないか、と思う。

もしおばあちゃんが自分の記憶を完全失くし
関係性がある家族や友人が死んでしまったら
おばあちゃんはおばあちゃんではなくなる。

つまり、「記憶」と「他人からの承認」が自己を支えている。

これら2つの要素がなければ
僕はいまからでも田中になってしまうのだ。

以上、南直哉氏の自己について文章を読みハッとさせられた佐藤でした。